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ナチスからユダヤ人を救った異色の外交官、杉原千畝 [杉原千畝]

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1940(昭和15)年の夏、リトアニア副領事だった杉原千畝氏が、
本国の指示に背いて、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害から
逃れてきたユダヤ難民6000人に出国ビザを発給した話。


以下は、ダイヤモンド・オンライン 佐高 信の「一人一話」【第36回】より引用

ユダヤ人にビザを発給すれば自らも命を狙われかねない

 ・走り出づる列車の窓に縋りくる  手に渡さるる命のビザは

 1940年9月1日、リトアニア駐在の領事代理だった杉原千畝の妻、幸子はベルリンへ向けて走り出す列車の窓から夫が身を乗り出してユダヤ人にビザを渡す情景をこう歌った。

 幸子は当時まだ20代である。そのほぼ1ヵ月前の7月27日朝、リトアニアの首都カウナスの日本領事館は、突然、姿を見せたユダヤ人たちに囲まれた。ナチス・ドイツの「ユダヤ人狩り」の手を逃れ、ポーランドからほとんど着のみ着のままやって来た人たちだった。いたいけな子どももいる。

 彼らは、日本通過のビザを発行してほしいと要請した。しかし、日本は4年前の1936年にナチス・ドイツと日独防共協定を結んでいる。日本領事館がユダヤ人にビザを発行したことがわかれば、杉原はゲシュタポに命をねらわれかねなかった。

 けれども、目の前のユダヤ人たちは必死に助けを求めている。

 当時5歳だった長男の弘樹が「あの人たちは何しに来たの?」と幸子に尋ねた。「悪い人に捕まって殺されるので助けて下さいって言ってきたのよ」

 幸子がこう答えると、弘樹はさらに、「パパが助けてあげるの?」と尋ねた。幸子は言葉につまりながらも、「そうですよ」と言い、息子を抱き寄せた。

 しかし、ユダヤ人を「助ける」ことは、この子をも危ない目に遭わせる可能性がある。「そうですよ」という幸子の言葉は、自分の覚悟を定めるためのものでもあった。

 その結論に至るまで、杉原夫妻は悩みに悩んだ。

 ・ビザ交付の決断に迷ひ眠れざる  夫のベッドの軋むを聞けり

『白夜』等の歌集をもつ幸子は、こう歌っている。

 千畝は、それからほぼ1ヵ月後に日独伊三国軍事同盟を結ぼうとしていた外務大臣の松岡洋右に、ビザ発給の許可を求める電報を打った。外務省きってのロシア通だった千畝は直通のルートを持っていた。

 もちろん、外務省の反応は否である。それでもまた、許可を求めてくる千畝について、外務省の幹部の間では、こんな会話も交わされていた。

「杉原君は、ユダヤ人を助けようとしているのじゃないだろうな」 「まさか。彼もそこまではやるまいよ。外務省と軍部の関係は、だれよりも彼がよく知っているはずじゃないか」 「でも、万一ってことがあるからね」 「どうかねぇ。リトアニアはドイツの目と鼻の先だ。そんなところでかい?」 「そうだな。ドイツのあの破竹の勢いを直接感じているのは、われわれより杉原君のほうだからな。何も好んでドイツの癇にさわるようなまねをするわけはない」 「今は、松岡さんが三国同盟を結ぶためにがんばっておる。彼は外交官なら、そんなことができるわけがないよ」

 杉原のことを書いた篠輝久の子ども向けの本、『約束の国への長い旅』(リブリオ出版)に引いてある会話だが、杉原のことをよく知る人は、しかし、こう言っていた。

「君たちは、杉原君のことをわかっていないな。彼は、殺されかかっているユダヤ人の子どもを放っておけるような男じゃないよ。ことによると、彼はやるかもしれん……」

 とはいえ、杉原夫妻の懊悩は続いた。そして遂に、千畝は外務省の命令に背いてビザを出す決心をする。

「いいだろう?」と確認する夫に、妻は強く頷いた。「あとで私たちはどうなるかわかりませんが、そうして下さい」

 千畝は外務省をやめさせられることも覚悟していた。

「いざとなれば、ロシア語で食べていくぐらいはできるだろう」

 不安をまぎらすようにつぶやいた言葉を幸子は聞いている。

「ここに100人の人がいたとしても、私たちのようにユダヤ人を助けようとは考えないだろうね。それでも、私たちはやろうか」

 幸子が書いた『六千人の命のビザ』(朝日ソノラマ)によれば、千畝はさらに、幸子の顔を正視して、こう念を押したという。

「ユダヤ民族の恩人」が日本で受けた仕打ち

 ・ビザを待つ人群に父親の手を握る  幼な子はいたく顔汚れをり

 千畝は「抗命」してビザを書き続ける。昼食もとらず、睡眠時間も削って、書き続けた。リトアニアを占拠したソ連(現ロシア)からの退去命令も厳しく、本国からも、領事館を閉鎖して直ちにベルリンへ行けという電報が届く中で、千畝はギリギリまでビザを出し続けた。

 それに対して当時は何の咎めもなく、それからチェコの総領事などをやって、戦後、帰国して、千畝は「抗命」の罪を問われる。その間、ソ連軍に捕まり、ラーゲリでの生活も経験した。ロシア語が達者なためにスパイの容疑をかけられ、厳しい取り調べも受けた。

 そんな辛い思いをして帰って来た千畝を待っていたのは、外務省の辞職勧告だった。これからは平和のために仕事ができると、外務省に次官の岡崎勝男を訪ねた千畝は、「杉原君、自分がリトアニアで何をしてきたか、わかっているでしょう。命令が聞けない人に外務省にいてもらっては困ります。やめて下さい」と言われる。千畝は、一瞬、声をのんだ後、「わかりました」と答えるしかなかった。

 リトアニアで「命のビザ」を発給されたユダヤ人は、「どんなに月日が経とうとも、私たちは必ず再びあなたの前に立ちます。そして、ユダヤ民族の碑に、あなたの名前を刻みます」と誓い、日本の外務省が杉原千畝について何も消息を教えなかったのに、あきらめずに探して顕彰した。

 1991年7月7日、日本テレビの「知ってるつもり!?」で杉原千畝のことが取り上げられ、それを見た中学生が、どうして教科書には杉原さんのことが出てこないのか、東郷平八郎のことを教えるより、杉原さんのことを教えたほうがずっといいのではないか、という手紙を幸子のところによこしたとか。

 その6年前にイスラエルの外相シャミルが来日し、歓迎レセプションが開かれた。当時の首相、中曽康弘や外相の安倍晋太郎も出席したが、85歳になっていた千畝もイスラエル大使に招かれて出席した。イスラエル政府は千畝を会場の真ん中に呼び、中曽根と安倍に、「杉原さんはユダヤ民族の恩人です」と紹介した。しかし、この時点で2人とも、千畝について何も知らなかった。

 それから6年後に、外務官僚の反対を押し切って、外務政務次官の鈴木宗男が幸子と弘樹に公式に謝罪し、“和解”を求める。千畝はすでに亡くなっていた。

「正直言って、今さら何をと思いました」と幸子は私に語った。

引用ここまで。

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杉原千畝氏の決断と幸子夫人に敬意です。
氏の決断とビザを発行し続けることは大変だったものと思います。平和ボケの身では想像できないことだった思いがします。発行しないことが当時の常識、日本政府にとって当然のこと。
立つ位置がちがうのでどうしても正反対の考えになってしまう。この世に対立が尽きない根本原因。

杉原千畝氏の詳しいことはフリー百科事典のウイキペディア杉原千畝を参照ください。


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